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キューブラー=ロスの「黒ウサギ」

心の深みへ -「うつ社会」脱出のために- (著者:河合隼雄、柳田邦男 新潮文庫)

この対談集を読んでいて大変印象的なところがあったので以下記す。
エリザベス・キューブラー=ロスは、20世紀後半に活躍したスイス生まれの精神科医で、世界規模で話題となった「死ぬ瞬間」の著者でもある 。
死んでゆく人の心のケアを早くから行い、現在の所謂ホスピスにも影響を与えるなど世界的にも高名な女医であった。

P169
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柳田:
・・・幼少期に自分が可愛がっていたウサギたちが、父親の命令で次々にローストやシチューにされてしまったことですね。いちばん可愛がっていた最後の一羽、ブラッキーという黒ウサギまでもが、「ブラッキーを肉屋に持っていけ」の一言で殺されてしまう。
家族がその料理を食べるのを見て、幼いロスは涙を抑えて、「これに耐えることができたら、どんなつらいことでも耐えられるようになるわ」と自分に言い聞かせるんですね。すごい出来事です。ロスはものすごく傷つく。ほとんどトラウマ(心の傷)と言っていいような傷。

河合:
あれは印象的なエピソードですね。

柳田:
その厳しく無慈悲な父親の言葉に対し、四十年間、何も表出できずに鬱積して過ごすんですね。それが実に四十年も経って、中年になってある苦難に直面したときに、突然そのことが蘇ってきて怒りの爆発となり、八時間も泣く。
そういう描写が激情をこめて書かれているのを読むと、いやあ、人間の人格形成にとって、幼少期の体験というのは、一見小さなエピソードでもほんとうに大きいんですね。
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キューブラー=ロスは生粋の西欧人である訳ですが、周囲の人々とは異なり家で飼うウサギを食肉とみなす感性は持てなかったようで、この点、東洋的というか日本人に共通するメンタリティがあるような気もするし、ひょっとして仏教の影響かなにか?と思わせるエピソードではある。
それはこの対談中でも後に触れられていますが、仏教との接点という線は可能性は低いようだ。
要するにもともと非ヨーロッパ的感性の持ち主であった、という単純な解釈で良いのでは。
しかしこうした感受性の持ち主は、かの共同体内でうまく順応していくことは困難だろう。事実、彼女のその後の人生は独立不羈、孤高の女医として同業の医者からもあるいは疎んぜられ、いややはり医師である夫にも一切妥協せず信念を貫き通した結果であろう、後年離婚してしまう。
あの世は確かに存在する、私は病院で死にゆく患者を看取った後、確かにその彼女とエレベータのところで話をした---例えばロス先生は斯様なことを平然と言い放つ。あるいはアウシュビッツの房内の木壁に何故か蝶が描かれていることが多かったという事実をもって、現世の人間はさなぎのようなものであり、死ぬと人は言わば蝶となって昇天する---こうしたことを彼女は真顔で主張する。宗教家ならともかく大学病院に勤務する女医が声高にこう言い張れば、大抵の人はこりゃ怪しげなカルトに取り憑かれたかな、と思い距離を置くだろう。
しかしそれでも彼女は決して怯まなかったし、本音を隠そうと猫を被ることもしなかった。計算高い世間智とは無縁の存在。

人は死ぬと一体どうなるのか?
このテーマについてロスはあくまで自分の目で見たと信ずるものに従い、またそれに基づき思索した結果をストレートに発表した。
その点、ユングとは異なる。彼は変人あるいは騙り扱いされることを恐れてか、生前この方面に関する自説の公表には慎重であったという。

鋼の心を持つキューブラー=ロス。
しかし、そうした並外れて強靭な精神の持ち主である女にして、幼い頃に失ったブラッキーのことを想い、中年のある日8時間ものあいだ怒りに震えさめざめと泣き続ける。このギャップ。(40年経っても決して心の傷が癒えることはなかった!)
人の心とは不思議なものだ。
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ヨーロッパ文学講義 (ナボコフ)

ナボコフ先生の「ヨーロッパ文学講義」中にて、比喩に関して大変為になる教科書的解説があったので以下記す。

初版 P276 
(比喩脚注におけるナボコフ先生の解釈および説明)

「霧はヴェールのようであった」というのは単純な直喩であり、
「霧のヴェールがかかっていた」となれば単純な隠喩、
「霧のヴェールは沈黙の眠りのようであった」といえば直喩と隠喩双方を結びつけた混成直喩ということになる。

どうでしょう。
さすが詩人による解説だと思いませんか?

樹影譚 (丸谷才一)

村上春樹著「若い読者のための短編小説案内」という本を読んでいたら丸谷才一のこの短編が取り上げられていた。
かなり褒めていたので興味を持ち読んでみたところ、なるほど確かに良くできている。

丸谷才一の文章というか日本語には、読むたびに常に関心してしまうのだが、例えば本短編中の次の一節などどうだろう。
とても印象的な描写で、これはなかなか書けない名文だと思うのだけれど。

P133

そのとき、若い女がまづ桑の中卓を屏風の前に据ゑ、次に別の女が盆栽を運んで来て、中卓に飾った。
二人が身を引くと古屋は思はず息を呑んだ。
樹々の影が二枚つなぎの無地の銀屏風の、彼と向かひ合ふ右の面に、あざやかに浮かび出たからである。
煉瓦いろの釉なめらかに焼いた長方の鉢のやや左手に、おそらく欅だらう、まだ落葉しない五幹の老樹が、根張り八方に逞しく、立上がり太く、しかし銀の夜空に向かつて鋭く伸び、背後の、やや大きくていつそう優美な、黒い影と交錯してゐる。


この中でも私が感心したのは欅に関する描写。
「まだ落葉しない五幹の老樹が、根張り八方に逞しく、立上がり太く、しかし銀の夜空に向かつて鋭く伸び」
いいですねえ、見事な盆栽のケヤキのたたずまいが活き活きと活写されているではありませんか。
「根張り八方に逞しく、立上がり太く」・・・声に出して読みたい日本語に推薦ですな。
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