2012.03.30
これまで僕はコンプライアンス室って呼んでましたが、正式には「コンプライアンス推進室」という名称だったってご存知でしたか?昨年中堅社員向け研修に参加した際に、人権教育と併せて受講して初めてその存在を知りました。
その研修は数日間に渡るものだったのですが、情報セキュリティ教育やリーダーとしての訓練心構えといった内容がメインでした。そして研修後半の最後の最後になってなんだか申し訳け程度の付け足しみたいに「人権とコンプライアンス」の1コマが設定されていたんです。コンプライアンスもそうですが「人権」についてもこの時初めて教育らしきものを受けたのです。中学でも高校でもあるいは大学でもそうした授業はなかった。ある時関西出身の同期とこの話題になって、僕がまったくこうしたテーマにウブで浅薄な知識しか持ち合わせていないことに彼は驚いていました。コニーともいつだったかこの話になった時、彼女は高校の授業で受けたと言ってました。それで僕が経験していないことを知るとやはり少しびっくりして、「それはあなたが授業中に居眠りでもしていたんじゃないの?」と少々失敬なことを言うのです。でも間違いありません。
コンプライアンスについては僕が社会人になってしばらくしてからよく取り上げられるようになった言葉ですから、それが「法令順守」を意味するのだということは、研修以前から知ってはいました。
今でもよく覚えているのは東証一部上場の某レンズメーカーでの内部告発騒ぎです。法人として法律を守っているとは言い難いいわゆる醜聞に属するような話を暴露したことが発端でした。
その後確か内部通報者の処遇を巡りゴタついて、意に染まぬ人事異動を受けた告発者が訴訟を起こしたのです。その顛末が新聞には詳しく載っていて興味深く読んだのですが、そこで盛んに「コンプライアンス」が登場したのですね。
彼は会社側が報復措置として事実上の左遷人事を断行したと主張した訳ですが、部外者には勿論、真偽のほどはわかりません。彼の言う通りかもしれないし、あるいはその人は仕事のできないただの木偶の坊だったのかもしれない(ちなみに確か技術部門から営業職に廻されたのではなかったかと)。
でもこの記事を読んだときはっきり確信できたのは、社内の同じセクションの人間だったら異動の是非は即座に答えが戻ってくるだろうなということ。いや、この告発した人物を知っている人だったら誰でも、社内の人間だろうと取引先だろうとその人事異動が適切だったかどうか確信を持って断言できるのではないでしょうか。
・・・と冷静な評論としては確かにそういう次第になるのですが、感情の部分では僕の判決はとっくに下されていたのです。チクッた裏切り者には冷や飯を食わせろ!---これが経営側の振り下ろした情け容赦ない鉄槌に違いない、新聞を読み終わると無意識のうちにそう感じていました。
そうした以前の記憶があったものですから、平目を刺す行為にかなり危険が伴うであろうことは十分予測してました。本社のコンプライアンス室に在籍する社員がどういうタイプの人物か見当もつきませんが、こちらの味方かどうかは全く不明です。・・・いや、大いに怪しい、僕は本能的にそう感じました。
行動を起こそうとして最初に当惑したのは、HPのどこを見てもその窓口のメールアドレスが載っていないことです。これはつまり通報する場合は、電話か手紙かはたまた直接訪問するしかないということでしょう。メールなら平常心で淡々と綴れるのに電話だと声が上ずってしまうかもしれない、最初の打診はできることなら直接コンタクトではなく匿名で行い、まずは相手の出方を探ってみたかったのですが・・・。それで冷淡な対応であるとか、とにかく誠意がいまひとつ感じられないようであれば黄信号でしょう。うかつに正体をさらせば逆にこちらが後々陰険な手段で報復されるかもしれない。なにしろ部長は本社からの出向組なのです。あちらではもともと出世コースに乗っていたのだと聞いたことがあります。なぜ本社をはずされたのか?ある時総務部長が冗談まじりに小指を立てて「これで私は会社を飛ばされました」とか茶化してましたが、どこまで信じて良いのか見当もつきません。たまに子会社を訪れる本社の偉いさん達と大声で談笑している姿からすると、今なお良好な人脈が維持されていると考えるのが妥当でしょう。そうした人物を子会社プロパーが本社の人間にセクハラ野郎だと告発するのです・・・新聞に載っていた勇気ある告発者みたいにならないと誰が断言できますか?
職場の周辺に相談できる友人知人がいない訳ではないけれどやはりためらわれました・・・第一ガールフレンドの外聞の悪い話など知られたくありませんし、それに告発した後でそんな噂が流れ始めたらその人は間違いなく通報者が僕だと確信するでしょう。そいつが寝返らない保証もありません。
当のコニーはどうでしょうか?やはり不毛な口論が延々と続き堂々巡りとなるのがオチでしょう(余談ですが女性と議論をしてとどのつまり建設的な結論を得て終わったためしがありません)。
なにしろあの晩自分は矛を収めると宣言したのです。自分が我慢すると言ってるのになんで直接の被害者でないあなたがカッコつけてそこまでこだわり突っ張るのか理解できない、第一将来の二人にとって益があるとはとても思えない、いや実害があるに決まってる・・・まあこんな感じでしょうか。
あの時、僕は心底孤立していたように思います。この心のもやもやは誰にも相談できない。
たとえ話をしたところで聞き手はうまいこと処方箋を書いてくれるものでしょうか?
仕事では間もなくクロージングを迎える大きなプロジェクトが進行中なのです。いやそればかりではない、会社のセキュリティ対策見直しの推進チームにも選出され、社内メールの運用見直しプロジェクトも佳境を迎えようとしているのです。ただでさえ猫の手も借りたいほど忙しいというのに、これに加えてプライベートでも問題を抱えることは・・・これはできない相談だ!
嗚呼、何度こうした叫びが心の内からふつふつと沸きあがってきたことでしょう。
(お前だけが今回の件をすっぱりと諦めればいいんだよ、簡単なことだ。コニーだって忘れるって言った。メンツを捨てて不承不承でも腹の中に収めれば・・・あとは後顧の憂いなくまっすぐ仕事に集中できるじゃないか!)
その頃のある晩こんな夢を見ました。
僕はジェットコースターの堅い椅子に座り、ゴンドラがゆっくりとコマ落としのように急カーブを描く鉄のはしごを上昇していくのです。途中、鉄の継ぎ目を通り過ぎるたびにゴツンともカツンとも何とも言えぬ不吉で鈍い金属音を残し、僕らは亀のスピードで昇っていきました。地上の風景は徐々にずり落ちフェードアウトして、前方には遮るもののない無限の青空が迫り、そこに吸い込まれそうな不安で僕の下半身はじんじんと疼きました。
となりにはコニーがいます。なにか喋っていましたが内容までは覚えていません。僕は盛んにそれに何か返事をしているのですがやはり内容はわかりません。二人は上ずった調子で互いに口を動かすのですがそれはまもなく訪れる大げさなつるべ落としに期待と不安で胸を膨らませ興奮しているようでもあります。
次の瞬間、真っ逆さまに落ちてゆくゴンドラ。
物凄い風圧と、同時に周辺から一斉にあがる悲鳴。そのほとんど全ては女性の声のようでしたが、そこには恐怖ばかりでなくなにかしら期待どおりのものが得られた時の充足感といったニュアンスも混じっており、僕はそこにわざとらしさを嗅いでちょっとイヤだなと感じたのです。
物凄いスピードで一旦底まで落ちたゴンドラが今度は反動で急上昇を始めました。ところが今度はどこまでも果てまでも昇り続けて行くのです。焦りながらもこれから一体どうなるのかと半ば呆れて身を任せました。
体はぐんぐん上昇を続けて、まだ箱に乗ったまま飛翔しているのか、あるいは翼が生えて飛んでいるような感覚もありましたがよく分かりません。隣にコニーがいるかどうかも不明です。
やがて、飛行機が飛ぶほどの高度にまで達し、下界を見下ろすとそこには日本の国土が拡がっていました。
例えではありません。文字通り地図でみたとおりのわが国が広がっていたのです。それはちょうどGoogle Earthで日本地図を俯瞰した時のイメージに近く、僕はたぶん今鳥になって飛んでいるのだなと理解しました。
首都圏をどんどん北上しそろそろ山岳地帯が迫ってきたかなというタイミングで画面は突然切り替わり、日光東照宮へと舞い降りたのです。先ほどまでは快晴だった筈ですが、ここはけぶり時折霧雨が降っています。参道をコニーと手をつなぎ僕達は歩を進めました。そうです、彼女はやはり隣にいたのです。
いかめしくそそり立つ大門をくぐりぬけ正面の大きなお堂までやってくると一人のお坊さんが待っていて僕達を出迎えてくれました。見るとそれはあの玄侑さんでした。
こう書くとまるでナンセンスなホラ話ですが、そこでの僕は全く違和感を覚えなかったし、至極当然の展開といった風で驚きもしませんでした。
玄侑和尚が手招きして僕達を呼び寄せるので近寄って行くと、あの低く落ち着いた声色で「御仏の思し召しのままに」そう言って合掌しながら深々と頭を垂れました。青く剃りあげた頭頂部がちょうど目の前にあり、陽がさしている訳でもないのにそこだけ妙にピカピカと眩しく光ります。
僕はなんだか神妙な厳かな気分になって、彼が奥のお堂へと案内するのに従い、頷きながらおとなしく歩を進めました。振り返るとコニーは優しく微笑んで佇んでいました。寂しげな姿にも見えましたが、彼女はどうやらそこで待っているつもりのようです。(さあしっかり行ってらっしゃい)・・・静かな笑みはそう語っており、僕は意を強くして前を向きました。
観音開きの黒くくすんだ扉を開けてお堂の内へ踏み入ると、そこには古びた板張りの随分大きな部屋が拡がっていて眼前に仰々しい大祭壇がしつらえてありました。薄暗い屋内を満たす湿った空気がなんとも辛気臭く、あたり一面線香の匂いが染み付いていたのでそれがいささか僕を憂鬱な気分にさせました。
気がつくと祭壇の脇に一人の人物が座っています。お堂の屋内は随分と暗いので眼を凝らして正体を確かめようとしたのですが認識不能です。和尚はその謎の人物の前まで僕を案内して立ち止まりました。見ると床几のようなものを手にして、「さあどうぞ」と腰掛けるよう勧めます。相手を紹介するでもなく、さも予定されていたかのような面談で、僕は少々面食らいながらもおとなしく従いました。
目の前の男は(たぶん男性なのです)頭からすっぽりと頭巾をかぶり、以前は随分と華やかな金色をしていたのでしょうが今ではくたびれてすっかり色褪せた法衣をまとっています。僕はもう一度眼を凝らして黒っぽい頭巾の奥を確かめようとしたのですが、暗くてやはり無駄でした。
「で今日はどんなご用件でお見えに?」
その声は思いのほか若々しく、少なくとも老人ではないなと直感しました。
「別に・・・この面会はこちらが頼んだ訳じゃないよ」僕はタメ口をきいてやりました。
黒頭巾はそれにはなにも答えず、無言のままただ歯をカチカチ鳴らしました。なんだか笑っている様子です。
僕は侮辱されたと思い、「彼女のことなら・・・自分で解決します。いかさま占いに頼るほど落ちぶれちゃいない」と思わず口走りました。
その男は目の前で極彩色に塗られた竹箸のお化けみたいなやつの束をじゃらじゃら言わせながら喉の奥で含み笑いをしています。
「色即是空 空即是色」妙に甲高い声で念仏のように唱え始めました。僕はその声を聞いてこいつは絶対解脱なんかしてないな、と確信したのです。何故ってどうも妙に軽い感じで、俗世間臭さがぷんぷんします。そう、例えばこの面談が終わると見料で揉めそうな、そんな雰囲気です。
「何人といえども女色から逃れることは難しい。それは男の性です。それは自然の理なのです。神様がそうお創りになったのです」
「でも、人間はサルじゃない。おのずと理性というものが備わっていて、抑制が働いてこそ人間ではないですか」
「あなた、彼女以外の女を抱きたいと思ったことはありませんか?」頭巾の奥から再び耳障りな硬い音がしました。
「ある筈です。テレビに映る女優にあなたは魅かれたする。あなたはそれを漠然と憧れ程度と認識しているかもしれませんが、実はチャンスがあればヤってしまいたいと願っているはずです」そいつはヒヒッと乾いた笑い声をたてました。
「なにも恥ずかしがることはありません。心の奥では男は皆そうなんだから・・・でも既にそれは姦淫ですよ」フフッと含み笑いをして頭巾はまた愉快そうに歯をカチカチ言わせるのです。
人前では言いにくい下品なことを平気で言うヤツだなぁ、と僕は呆れました。
「例えば犬の交尾にタブーはありませんね・・・人前だろうと気に入ったメスを見つけると白昼堂々と襲いかかり犯します」
「ああ!しかし私はこれこそ自然の姿そのものだと思い感心もするのです。あとづけの道徳も規範もない自然児そのものの振る舞い!・・・あなたはそれが醜い行為だとでも?」
「ですから人間はエテ公でも犬畜生でもないと言ってるでしょう」僕はムカムカしてきて、そいつの頭巾をむんずとつかんで正体を見てやろうかと思いました。
「僕だって普通の男です、コニー以外の女を抱きたいと思うこともあるでしょう。でもそれを実際に・・・実践してしまうとあまりに醜悪な現実を見ることになる。現に僕は無理やり垣間見たんですよ、それもつい最近に・・・」
こんな奴に同情してもらうつもりなどなかったのに、最後のセリフはなんだか気弱な調子で情けないものがありました。
「言いにくいんだけど」言いよどむこともなくインチキ占い師はなめらかに言葉を続けます。「ひょっとして彼女の方も合意の上では?」
それを聞いた途端、一気にブチ切れ、「ふざけるな、テメェ」と怒鳴りつけてやりました。
目の前の相手の頭巾を思いっきり引き剥がしざま床板に放り投げてやった!
次の瞬間、中から現れたそいつの素顔を見て僕は仰天しました。骸骨が歯をカチカチ言わせながらこちらを凝視しているのです。
僕はうわっと叫ぶなり後ずさりして逃げようとしましたが、腰が抜けて動けません。
早く逃げなければ、サイコ野郎に捕まる前にこのお堂から脱出しなければ、と四肢をばたつかせ無我夢中であがいているうちに眼が覚めて・・・全身は汗でぐっしょり濡れていました。
不愉快で奇怪な夢を見た翌日、僕は遂に計画を実行に移しました。
会社の昼休みにあたりを覗いながら応接室に入り、内線電話で本社のコンプライアンス推進室にコールしたのです。
内線特有の呼び出し音が何度か鳴り、受話器から聞こえてきた声は女性のものでした。
「コンプライアンス推進室ですが」
声の感じではそれほど若い女性とは思えません。
僕はかなり緊張していて最初の取っ掛かりの言葉がうまく出てこなかった。だから単刀直入に切り出したのです。
「セクハラの件で相談があります」やっとそれだけを呻くように喉の奥から搾り出しました。
「・・・それは社内の案件ですか?」受話器の向こう側から伝わる少々当惑したような様子。
「はい、グループ会社の案件です」
「失礼ですが・・・会社名とお名前は?そちらは社員の方ですか」
「内線経由なんですから・・・外部の訳ありません」
僕はやっと少し落ち着きを取り戻し、今はまだ名前は勘弁して欲しいと告げました。
用件をかいつまんで話し、そちらではそうしたトラブルに対処することができるのか尋ねました。
回答は・・・とりあえず詳しいお話を伺いましょう、過去何度か同様の告発が寄せられたことはあります、とのことでした。
その後、僕は苗字だけを相手に伝え、訪問の日時を取り決めたのですが、社名だけはとうとう明かしませんでした。相手は何度か確認を迫ったのですが、訪問した際に教えることにして最後まで突っぱねたのです。
電話を終えて深いため息を一度ついた後、昼食を買いに近くのコンビニまで外出しました。
外は雲ひとつない快晴で、空気はまだ冷たかったけれど、食料品を求めて集まる人達はみな軽装です。
遂に賽は投げられた・・・そんな言葉が頭の中を何度も巡りました。
店内で持ち帰るランチを物色しながらも、頭の中では色々な想念が入り乱れ飛び交いました。
もう後戻りはできないぞ・・・いや、いざとなればすっぽかせばいい。えっ?なにを弱気に・・・ケリをつけるんだろ?どうしても落とし前をつけるんだろう?男として、いやまともな人間として・・・泣き寝入りはしないんだろ?
買い物を済ませ外に出ると、空には抜けるような青空が広がっていたのに、僕の視線は目の前のアスファルト舗装に落ちたまま、路上をさまよい続けました。
午後からはしばらく会議漬けの予定で、コーディングに戻れるのは夕方以降でしょう。今日も帰宅はきっと夜遅くになるに違いありません。
その研修は数日間に渡るものだったのですが、情報セキュリティ教育やリーダーとしての訓練心構えといった内容がメインでした。そして研修後半の最後の最後になってなんだか申し訳け程度の付け足しみたいに「人権とコンプライアンス」の1コマが設定されていたんです。コンプライアンスもそうですが「人権」についてもこの時初めて教育らしきものを受けたのです。中学でも高校でもあるいは大学でもそうした授業はなかった。ある時関西出身の同期とこの話題になって、僕がまったくこうしたテーマにウブで浅薄な知識しか持ち合わせていないことに彼は驚いていました。コニーともいつだったかこの話になった時、彼女は高校の授業で受けたと言ってました。それで僕が経験していないことを知るとやはり少しびっくりして、「それはあなたが授業中に居眠りでもしていたんじゃないの?」と少々失敬なことを言うのです。でも間違いありません。
コンプライアンスについては僕が社会人になってしばらくしてからよく取り上げられるようになった言葉ですから、それが「法令順守」を意味するのだということは、研修以前から知ってはいました。
今でもよく覚えているのは東証一部上場の某レンズメーカーでの内部告発騒ぎです。法人として法律を守っているとは言い難いいわゆる醜聞に属するような話を暴露したことが発端でした。
その後確か内部通報者の処遇を巡りゴタついて、意に染まぬ人事異動を受けた告発者が訴訟を起こしたのです。その顛末が新聞には詳しく載っていて興味深く読んだのですが、そこで盛んに「コンプライアンス」が登場したのですね。
彼は会社側が報復措置として事実上の左遷人事を断行したと主張した訳ですが、部外者には勿論、真偽のほどはわかりません。彼の言う通りかもしれないし、あるいはその人は仕事のできないただの木偶の坊だったのかもしれない(ちなみに確か技術部門から営業職に廻されたのではなかったかと)。
でもこの記事を読んだときはっきり確信できたのは、社内の同じセクションの人間だったら異動の是非は即座に答えが戻ってくるだろうなということ。いや、この告発した人物を知っている人だったら誰でも、社内の人間だろうと取引先だろうとその人事異動が適切だったかどうか確信を持って断言できるのではないでしょうか。
・・・と冷静な評論としては確かにそういう次第になるのですが、感情の部分では僕の判決はとっくに下されていたのです。チクッた裏切り者には冷や飯を食わせろ!---これが経営側の振り下ろした情け容赦ない鉄槌に違いない、新聞を読み終わると無意識のうちにそう感じていました。
そうした以前の記憶があったものですから、平目を刺す行為にかなり危険が伴うであろうことは十分予測してました。本社のコンプライアンス室に在籍する社員がどういうタイプの人物か見当もつきませんが、こちらの味方かどうかは全く不明です。・・・いや、大いに怪しい、僕は本能的にそう感じました。
行動を起こそうとして最初に当惑したのは、HPのどこを見てもその窓口のメールアドレスが載っていないことです。これはつまり通報する場合は、電話か手紙かはたまた直接訪問するしかないということでしょう。メールなら平常心で淡々と綴れるのに電話だと声が上ずってしまうかもしれない、最初の打診はできることなら直接コンタクトではなく匿名で行い、まずは相手の出方を探ってみたかったのですが・・・。それで冷淡な対応であるとか、とにかく誠意がいまひとつ感じられないようであれば黄信号でしょう。うかつに正体をさらせば逆にこちらが後々陰険な手段で報復されるかもしれない。なにしろ部長は本社からの出向組なのです。あちらではもともと出世コースに乗っていたのだと聞いたことがあります。なぜ本社をはずされたのか?ある時総務部長が冗談まじりに小指を立てて「これで私は会社を飛ばされました」とか茶化してましたが、どこまで信じて良いのか見当もつきません。たまに子会社を訪れる本社の偉いさん達と大声で談笑している姿からすると、今なお良好な人脈が維持されていると考えるのが妥当でしょう。そうした人物を子会社プロパーが本社の人間にセクハラ野郎だと告発するのです・・・新聞に載っていた勇気ある告発者みたいにならないと誰が断言できますか?
職場の周辺に相談できる友人知人がいない訳ではないけれどやはりためらわれました・・・第一ガールフレンドの外聞の悪い話など知られたくありませんし、それに告発した後でそんな噂が流れ始めたらその人は間違いなく通報者が僕だと確信するでしょう。そいつが寝返らない保証もありません。
当のコニーはどうでしょうか?やはり不毛な口論が延々と続き堂々巡りとなるのがオチでしょう(余談ですが女性と議論をしてとどのつまり建設的な結論を得て終わったためしがありません)。
なにしろあの晩自分は矛を収めると宣言したのです。自分が我慢すると言ってるのになんで直接の被害者でないあなたがカッコつけてそこまでこだわり突っ張るのか理解できない、第一将来の二人にとって益があるとはとても思えない、いや実害があるに決まってる・・・まあこんな感じでしょうか。
あの時、僕は心底孤立していたように思います。この心のもやもやは誰にも相談できない。
たとえ話をしたところで聞き手はうまいこと処方箋を書いてくれるものでしょうか?
仕事では間もなくクロージングを迎える大きなプロジェクトが進行中なのです。いやそればかりではない、会社のセキュリティ対策見直しの推進チームにも選出され、社内メールの運用見直しプロジェクトも佳境を迎えようとしているのです。ただでさえ猫の手も借りたいほど忙しいというのに、これに加えてプライベートでも問題を抱えることは・・・これはできない相談だ!
嗚呼、何度こうした叫びが心の内からふつふつと沸きあがってきたことでしょう。
(お前だけが今回の件をすっぱりと諦めればいいんだよ、簡単なことだ。コニーだって忘れるって言った。メンツを捨てて不承不承でも腹の中に収めれば・・・あとは後顧の憂いなくまっすぐ仕事に集中できるじゃないか!)
その頃のある晩こんな夢を見ました。
僕はジェットコースターの堅い椅子に座り、ゴンドラがゆっくりとコマ落としのように急カーブを描く鉄のはしごを上昇していくのです。途中、鉄の継ぎ目を通り過ぎるたびにゴツンともカツンとも何とも言えぬ不吉で鈍い金属音を残し、僕らは亀のスピードで昇っていきました。地上の風景は徐々にずり落ちフェードアウトして、前方には遮るもののない無限の青空が迫り、そこに吸い込まれそうな不安で僕の下半身はじんじんと疼きました。
となりにはコニーがいます。なにか喋っていましたが内容までは覚えていません。僕は盛んにそれに何か返事をしているのですがやはり内容はわかりません。二人は上ずった調子で互いに口を動かすのですがそれはまもなく訪れる大げさなつるべ落としに期待と不安で胸を膨らませ興奮しているようでもあります。
次の瞬間、真っ逆さまに落ちてゆくゴンドラ。
物凄い風圧と、同時に周辺から一斉にあがる悲鳴。そのほとんど全ては女性の声のようでしたが、そこには恐怖ばかりでなくなにかしら期待どおりのものが得られた時の充足感といったニュアンスも混じっており、僕はそこにわざとらしさを嗅いでちょっとイヤだなと感じたのです。
物凄いスピードで一旦底まで落ちたゴンドラが今度は反動で急上昇を始めました。ところが今度はどこまでも果てまでも昇り続けて行くのです。焦りながらもこれから一体どうなるのかと半ば呆れて身を任せました。
体はぐんぐん上昇を続けて、まだ箱に乗ったまま飛翔しているのか、あるいは翼が生えて飛んでいるような感覚もありましたがよく分かりません。隣にコニーがいるかどうかも不明です。
やがて、飛行機が飛ぶほどの高度にまで達し、下界を見下ろすとそこには日本の国土が拡がっていました。
例えではありません。文字通り地図でみたとおりのわが国が広がっていたのです。それはちょうどGoogle Earthで日本地図を俯瞰した時のイメージに近く、僕はたぶん今鳥になって飛んでいるのだなと理解しました。
首都圏をどんどん北上しそろそろ山岳地帯が迫ってきたかなというタイミングで画面は突然切り替わり、日光東照宮へと舞い降りたのです。先ほどまでは快晴だった筈ですが、ここはけぶり時折霧雨が降っています。参道をコニーと手をつなぎ僕達は歩を進めました。そうです、彼女はやはり隣にいたのです。
いかめしくそそり立つ大門をくぐりぬけ正面の大きなお堂までやってくると一人のお坊さんが待っていて僕達を出迎えてくれました。見るとそれはあの玄侑さんでした。
こう書くとまるでナンセンスなホラ話ですが、そこでの僕は全く違和感を覚えなかったし、至極当然の展開といった風で驚きもしませんでした。
玄侑和尚が手招きして僕達を呼び寄せるので近寄って行くと、あの低く落ち着いた声色で「御仏の思し召しのままに」そう言って合掌しながら深々と頭を垂れました。青く剃りあげた頭頂部がちょうど目の前にあり、陽がさしている訳でもないのにそこだけ妙にピカピカと眩しく光ります。
僕はなんだか神妙な厳かな気分になって、彼が奥のお堂へと案内するのに従い、頷きながらおとなしく歩を進めました。振り返るとコニーは優しく微笑んで佇んでいました。寂しげな姿にも見えましたが、彼女はどうやらそこで待っているつもりのようです。(さあしっかり行ってらっしゃい)・・・静かな笑みはそう語っており、僕は意を強くして前を向きました。
観音開きの黒くくすんだ扉を開けてお堂の内へ踏み入ると、そこには古びた板張りの随分大きな部屋が拡がっていて眼前に仰々しい大祭壇がしつらえてありました。薄暗い屋内を満たす湿った空気がなんとも辛気臭く、あたり一面線香の匂いが染み付いていたのでそれがいささか僕を憂鬱な気分にさせました。
気がつくと祭壇の脇に一人の人物が座っています。お堂の屋内は随分と暗いので眼を凝らして正体を確かめようとしたのですが認識不能です。和尚はその謎の人物の前まで僕を案内して立ち止まりました。見ると床几のようなものを手にして、「さあどうぞ」と腰掛けるよう勧めます。相手を紹介するでもなく、さも予定されていたかのような面談で、僕は少々面食らいながらもおとなしく従いました。
目の前の男は(たぶん男性なのです)頭からすっぽりと頭巾をかぶり、以前は随分と華やかな金色をしていたのでしょうが今ではくたびれてすっかり色褪せた法衣をまとっています。僕はもう一度眼を凝らして黒っぽい頭巾の奥を確かめようとしたのですが、暗くてやはり無駄でした。
「で今日はどんなご用件でお見えに?」
その声は思いのほか若々しく、少なくとも老人ではないなと直感しました。
「別に・・・この面会はこちらが頼んだ訳じゃないよ」僕はタメ口をきいてやりました。
黒頭巾はそれにはなにも答えず、無言のままただ歯をカチカチ鳴らしました。なんだか笑っている様子です。
僕は侮辱されたと思い、「彼女のことなら・・・自分で解決します。いかさま占いに頼るほど落ちぶれちゃいない」と思わず口走りました。
その男は目の前で極彩色に塗られた竹箸のお化けみたいなやつの束をじゃらじゃら言わせながら喉の奥で含み笑いをしています。
「色即是空 空即是色」妙に甲高い声で念仏のように唱え始めました。僕はその声を聞いてこいつは絶対解脱なんかしてないな、と確信したのです。何故ってどうも妙に軽い感じで、俗世間臭さがぷんぷんします。そう、例えばこの面談が終わると見料で揉めそうな、そんな雰囲気です。
「何人といえども女色から逃れることは難しい。それは男の性です。それは自然の理なのです。神様がそうお創りになったのです」
「でも、人間はサルじゃない。おのずと理性というものが備わっていて、抑制が働いてこそ人間ではないですか」
「あなた、彼女以外の女を抱きたいと思ったことはありませんか?」頭巾の奥から再び耳障りな硬い音がしました。
「ある筈です。テレビに映る女優にあなたは魅かれたする。あなたはそれを漠然と憧れ程度と認識しているかもしれませんが、実はチャンスがあればヤってしまいたいと願っているはずです」そいつはヒヒッと乾いた笑い声をたてました。
「なにも恥ずかしがることはありません。心の奥では男は皆そうなんだから・・・でも既にそれは姦淫ですよ」フフッと含み笑いをして頭巾はまた愉快そうに歯をカチカチ言わせるのです。
人前では言いにくい下品なことを平気で言うヤツだなぁ、と僕は呆れました。
「例えば犬の交尾にタブーはありませんね・・・人前だろうと気に入ったメスを見つけると白昼堂々と襲いかかり犯します」
「ああ!しかし私はこれこそ自然の姿そのものだと思い感心もするのです。あとづけの道徳も規範もない自然児そのものの振る舞い!・・・あなたはそれが醜い行為だとでも?」
「ですから人間はエテ公でも犬畜生でもないと言ってるでしょう」僕はムカムカしてきて、そいつの頭巾をむんずとつかんで正体を見てやろうかと思いました。
「僕だって普通の男です、コニー以外の女を抱きたいと思うこともあるでしょう。でもそれを実際に・・・実践してしまうとあまりに醜悪な現実を見ることになる。現に僕は無理やり垣間見たんですよ、それもつい最近に・・・」
こんな奴に同情してもらうつもりなどなかったのに、最後のセリフはなんだか気弱な調子で情けないものがありました。
「言いにくいんだけど」言いよどむこともなくインチキ占い師はなめらかに言葉を続けます。「ひょっとして彼女の方も合意の上では?」
それを聞いた途端、一気にブチ切れ、「ふざけるな、テメェ」と怒鳴りつけてやりました。
目の前の相手の頭巾を思いっきり引き剥がしざま床板に放り投げてやった!
次の瞬間、中から現れたそいつの素顔を見て僕は仰天しました。骸骨が歯をカチカチ言わせながらこちらを凝視しているのです。
僕はうわっと叫ぶなり後ずさりして逃げようとしましたが、腰が抜けて動けません。
早く逃げなければ、サイコ野郎に捕まる前にこのお堂から脱出しなければ、と四肢をばたつかせ無我夢中であがいているうちに眼が覚めて・・・全身は汗でぐっしょり濡れていました。
不愉快で奇怪な夢を見た翌日、僕は遂に計画を実行に移しました。
会社の昼休みにあたりを覗いながら応接室に入り、内線電話で本社のコンプライアンス推進室にコールしたのです。
内線特有の呼び出し音が何度か鳴り、受話器から聞こえてきた声は女性のものでした。
「コンプライアンス推進室ですが」
声の感じではそれほど若い女性とは思えません。
僕はかなり緊張していて最初の取っ掛かりの言葉がうまく出てこなかった。だから単刀直入に切り出したのです。
「セクハラの件で相談があります」やっとそれだけを呻くように喉の奥から搾り出しました。
「・・・それは社内の案件ですか?」受話器の向こう側から伝わる少々当惑したような様子。
「はい、グループ会社の案件です」
「失礼ですが・・・会社名とお名前は?そちらは社員の方ですか」
「内線経由なんですから・・・外部の訳ありません」
僕はやっと少し落ち着きを取り戻し、今はまだ名前は勘弁して欲しいと告げました。
用件をかいつまんで話し、そちらではそうしたトラブルに対処することができるのか尋ねました。
回答は・・・とりあえず詳しいお話を伺いましょう、過去何度か同様の告発が寄せられたことはあります、とのことでした。
その後、僕は苗字だけを相手に伝え、訪問の日時を取り決めたのですが、社名だけはとうとう明かしませんでした。相手は何度か確認を迫ったのですが、訪問した際に教えることにして最後まで突っぱねたのです。
電話を終えて深いため息を一度ついた後、昼食を買いに近くのコンビニまで外出しました。
外は雲ひとつない快晴で、空気はまだ冷たかったけれど、食料品を求めて集まる人達はみな軽装です。
遂に賽は投げられた・・・そんな言葉が頭の中を何度も巡りました。
店内で持ち帰るランチを物色しながらも、頭の中では色々な想念が入り乱れ飛び交いました。
もう後戻りはできないぞ・・・いや、いざとなればすっぽかせばいい。えっ?なにを弱気に・・・ケリをつけるんだろ?どうしても落とし前をつけるんだろう?男として、いやまともな人間として・・・泣き寝入りはしないんだろ?
買い物を済ませ外に出ると、空には抜けるような青空が広がっていたのに、僕の視線は目の前のアスファルト舗装に落ちたまま、路上をさまよい続けました。
午後からはしばらく会議漬けの予定で、コーディングに戻れるのは夕方以降でしょう。今日も帰宅はきっと夜遅くになるに違いありません。
2012.01.22
それから数日のあいだ、内心悶々としながらもクロージングの局面を迎えた開発作業に忙殺されて、ひとりでじっくりと考えるいとまもありませんでした。
やっとたどり着いた土曜日も休日出勤で昼過ぎまで会社にいましたし、仕事を終えるとコニーと合流しアパートの近くで遅めの昼食をとりましたが、あの話題が顔を出すことはもうありませんでした。帰宅してからは、彼女にも手伝ってもらいながら、1週間分の掃除やら洗濯です。もう何年もこんな生活をしている気がしましたが、一体どれくらいの時間が流れたのかうまく思い出せません。
そうしてやっと日曜日を迎えた時には随分と久しぶりの休日だったような気がします。
思い切り朝寝坊をして遅めの朝食を簡単にシリアルと牛乳で済ませると、1週間ぶりのジョギングの用意を始めました。かつては仲間とフットサルもやっていたのですがさすがに体がついて行かなくなり、最近ではもっぱらただ走るほうに切り替えたのです。
走ることは気持がいい、素直にそう思います。平日は朝から晩まで頭脳ばかりを酷使している訳ですが、こんなことは生物の、いや動物の本来の姿にもとる生活だと信じています。何故って動物が食べれなくなったり動けなくなったりしたら、その時はもう死ぬしかないでしょう?じっと椅子の上に座り続けて前面のディスプレイを何時間も見続けながら手だけ動かしていると、時々食事をとることも忘れています。でもそれって結局まともに食欲が湧いてこないってこと・・・やはり病的です。こんなこといつまでも続けていちゃいけない。
少々はみ出てきたわき腹を鏡でチェックしながら着替えを始めました。
黒地ベースのウインド・ブレーカーはファスナー部分がきれいなスカイ・ブルーで、脇の下から袖裏にかけては鮮やかな赤で縫合されています。黒のロング・タイツはミズノの通販で購入したもの。そしてシューズはグレー地に紅いラインも鮮やかなアディダス。・・・こうしたウエアで身を固めると近くの運動公園までストレッチしながら向かったのです。
アパートから10分ほど歩くと、1周400メートルの贅沢なコースを持つ陸上競技場を取り囲んで舗装されたジョギングコースが現れます。今はまだ枯れたままですがまもなく薄いピンクのさくら並木で覆われる僕の大好きなコースです。
そろそろ冬は終わろうとしていました。快晴のスポーツ日和でしたが、走り始めると空気はまだ肌を刺すように冷たく筋肉がほぐれるまでには少々時間がかかりそうです。見上げると寒々とした並木の梢にはまだ堅く身を閉じてはいるけれど、確かにつぼみが連なっているではありませんか。背景の抜けるような真っ青なキャンバスの中で、いくつもの生硬なふくらみが約束されたその時を待ちわびてひっそりと震えています。そうです、遅々としてまるで気がつかないほどですが、確実に春はそこまで来ているのです。
寒そうに震えるイタリアン・グレイハウンドを従えた奥さん達、広場でバドミントンにうち興じる親子連れ、気合を入れた走りを見せる学生諸君、紺色上下のスウェットでウォーキングに励む老人・・・冬の終わりの昼下がり、そうしたのどかな風景の中にやがて僕は吸収されていったのです。
耳にあてたイヤホンを直し、iPod shuffleから流れる音の中でリズムを整えていきます。
流れ行く風景に合わせるBGMはJaco Pastorius。
耳の周りでベースが小気味良くビンビン響いてきます。
Soul・・・Intro・・・The Chicken!だんだんと体がほぐれてきたぞ!
周回を重ねるジョガーは老若男女さまざまです。
ハーフ・パンツ姿の若者が軽快に駆け抜け、前を走っていた老ジョガーはあっという間にカメのように置き去りにされ、反対方向からは腕の振りがやけに威勢が良くて大股のウォーキング女性達がおしゃべりしながらやってきました・・・リズミカルな呼吸やらナイロン生地のアウターのこすれる音があちこちで次々と聞こえては去っていく・・・皆がそれぞれ自分のペースを守りながら陽の降り注ぐ周回路を謳歌しているのです。
iPodからスティール・ドラムの小気味よいメロディが流れる頃には体も温まり呼吸のリズムが安定してきました。
1周目を軽く流し、もう少しピッチを上げるかなと思った頃、行く手に初老の男性が目にとまったのです。
白いランニング・シャツに黒のハーフ・パンツ姿。頭には赤いバンダナらしきものをねじり鉢巻のようにして、それが周りのジョガーとはいささか異なる雰囲気を醸し出していました。徐々に近づくとむき出しの脛には剛毛が密生しているようです。随分と毛の濃いおっさんだなぁ、とは思いましたが日本人にも時折毛ガニみたいな奴がいるのでそれほどの違和感はありません。もっともコニーは毛ガニみたいな男は大嫌いで触られるのもイヤと言ってましたが・・・
2周目の入り口あたりで僕はその赤いバンダナを軽くパスしようと追い越したのですが、後ろの足音がなかなか遠ざかりません。あれおかしいな、自分よりもっと飛ばしている若者にでも追いつかれてるのかな・・・と振り返ろうとした瞬間、白いシャツが鮮やかに僕を抜き去っていきました。
あいつだ!・・・さきほどより大きくストライドを取って赤いバンダナが見る見る目の前から遠ざかっていきます。勢いが明らかに1周目より勝っている。スパートでもかけているのでしょうか?
(待て。こら待たんか!)一度は抜いた相手に抜き返されると条件反射的に僕の闘争心に火がつきました。
しかもこの赤いバンダナ、僕の2倍くらいは年を食っている感じです。頭頂部だってだいぶ怪しくなっている。いわゆる団塊の世代というやつでしょう。会社にもこの年代のおじさん達は何人もいました。大抵がPCのセットアップも満足にできずエクセルの基本操作だけでもやっとこさというレベルのくせに自己主張だけは強く、パスタをうどん喰いするように下品だけれどパワフルなのが揃っていました。
この日のランニングは1週間ぶりだったでしょうか、普段は殆ど1日中座業なので無理は禁物、徐々に体を慣らしていってペースアップ・・・と心がけて走り始めたのにここにきて俄然ヒートアップしてきました。
前を行く白いランニングシャツの背中は真ん中を中心にべったり汗で張り付いています。まだ冬だというのに随分新陳代謝の活発なオヤジです。
そう言えば通勤の満員電車にもやけに体温が高そうで汗っかきのオッサンにしばしば遭遇することを思い出しました。この間などは途中の急行停車駅に息せき切った感じのおじさんがドアの閉まる寸前に突撃してきて背中を押された連中は皆顔をしかめていたのですが、当人全く意に介した風もなくぜいぜい大きく息を吐き、前にいた若いOLは露骨にイヤそうに顔をしかめていたのですが、多分口臭がきつかったのだと思います。そのうち密閉された車内の気温が外よりだいぶ高いためか、冬だと言うのにこめかみのあたりから汗がたらたらと流れ落ちてきました。その男性は暑くて堪らんといった仕草で何度も手の甲で顔の汗を拭っていたのですが、それでも気持はさっそく両手でしっかりと鷲掴みにしたスポーツ紙に集中しているようで、メガネからおよそ10数cmという超近接状態の苛酷な読書環境のなか気が散る風でもなく慣れた様子です。僕はなにげにそのスポーツ紙に目をやったのですが、半裸のあられもない恰好の娘の写真とともに、「ここに技あり!超悶絶****スペシャル」・・・とかいうどぎついタイトルがデカゴチックで堂々と紙面の中央を占拠しています。まだ早朝だというのに僕はひどい胸焼けを感じました。
結局2周目は暫く並走状態が続きました。先行する赤いバンダナを僕が必死で追いかける展開で第3コーナーになだれ込んだのですが、最後の第4コーナーではいささかプランがありました。
その角は少し起伏のある昇りで一番きつい。そこで一気に抜き去ろうと思ったのです。
その頃にはだいぶ息があがってきていて、吹き出る汗を拭いながら無意識のうちに胸の前のファスナーに手をかけていました。先行ランナーもハアハアと随分息が荒くなり肩が激しく揺れてきました。
こちらも余裕は全くありません、だんだんとランナーズ・ハイ状態に向かって昇天しそうです。
(いよいよ脳内麻薬だ、エンドルフィンの放出だ!)
激しい呼吸の中で断片的なフレーズが飛び交い、最後のスパートをかけようとしたその時、白シャツは急に第4コーナーの右手に拡がる植え込みの脇道へと駆け込んでいきました・・・
逃げた・・・逃げられた・・・脇へと遠ざかる団塊おやじの背を目で追いながら、僕のペースはいきなりがっくりとダウンしていきました。あともう少しだったのに・・・
第4コーナーを廻ったところで僕は走るのを止め、ぜいぜい言いながらも腰に手をやり先ほどの植栽のこんもりとしたあたりに目を凝らしました。あの男はすでに走り去り、あたりに人の気配はまったくありません。
しばらく荒い呼吸が落ち着くのを待ちながら、僕はなおも冬枯れの中で寒そうに咲く可憐な花々を見つめていました。iPodからはブルース系のロックが景気良く流れてきます。
その時、突然決心がついたのです。よし行動を起こすんだ、まず手始めにコンプライアンス室からだと。
やっとたどり着いた土曜日も休日出勤で昼過ぎまで会社にいましたし、仕事を終えるとコニーと合流しアパートの近くで遅めの昼食をとりましたが、あの話題が顔を出すことはもうありませんでした。帰宅してからは、彼女にも手伝ってもらいながら、1週間分の掃除やら洗濯です。もう何年もこんな生活をしている気がしましたが、一体どれくらいの時間が流れたのかうまく思い出せません。
そうしてやっと日曜日を迎えた時には随分と久しぶりの休日だったような気がします。
思い切り朝寝坊をして遅めの朝食を簡単にシリアルと牛乳で済ませると、1週間ぶりのジョギングの用意を始めました。かつては仲間とフットサルもやっていたのですがさすがに体がついて行かなくなり、最近ではもっぱらただ走るほうに切り替えたのです。
走ることは気持がいい、素直にそう思います。平日は朝から晩まで頭脳ばかりを酷使している訳ですが、こんなことは生物の、いや動物の本来の姿にもとる生活だと信じています。何故って動物が食べれなくなったり動けなくなったりしたら、その時はもう死ぬしかないでしょう?じっと椅子の上に座り続けて前面のディスプレイを何時間も見続けながら手だけ動かしていると、時々食事をとることも忘れています。でもそれって結局まともに食欲が湧いてこないってこと・・・やはり病的です。こんなこといつまでも続けていちゃいけない。
少々はみ出てきたわき腹を鏡でチェックしながら着替えを始めました。
黒地ベースのウインド・ブレーカーはファスナー部分がきれいなスカイ・ブルーで、脇の下から袖裏にかけては鮮やかな赤で縫合されています。黒のロング・タイツはミズノの通販で購入したもの。そしてシューズはグレー地に紅いラインも鮮やかなアディダス。・・・こうしたウエアで身を固めると近くの運動公園までストレッチしながら向かったのです。
アパートから10分ほど歩くと、1周400メートルの贅沢なコースを持つ陸上競技場を取り囲んで舗装されたジョギングコースが現れます。今はまだ枯れたままですがまもなく薄いピンクのさくら並木で覆われる僕の大好きなコースです。
そろそろ冬は終わろうとしていました。快晴のスポーツ日和でしたが、走り始めると空気はまだ肌を刺すように冷たく筋肉がほぐれるまでには少々時間がかかりそうです。見上げると寒々とした並木の梢にはまだ堅く身を閉じてはいるけれど、確かにつぼみが連なっているではありませんか。背景の抜けるような真っ青なキャンバスの中で、いくつもの生硬なふくらみが約束されたその時を待ちわびてひっそりと震えています。そうです、遅々としてまるで気がつかないほどですが、確実に春はそこまで来ているのです。
寒そうに震えるイタリアン・グレイハウンドを従えた奥さん達、広場でバドミントンにうち興じる親子連れ、気合を入れた走りを見せる学生諸君、紺色上下のスウェットでウォーキングに励む老人・・・冬の終わりの昼下がり、そうしたのどかな風景の中にやがて僕は吸収されていったのです。
耳にあてたイヤホンを直し、iPod shuffleから流れる音の中でリズムを整えていきます。
流れ行く風景に合わせるBGMはJaco Pastorius。
耳の周りでベースが小気味良くビンビン響いてきます。
Soul・・・Intro・・・The Chicken!だんだんと体がほぐれてきたぞ!
周回を重ねるジョガーは老若男女さまざまです。
ハーフ・パンツ姿の若者が軽快に駆け抜け、前を走っていた老ジョガーはあっという間にカメのように置き去りにされ、反対方向からは腕の振りがやけに威勢が良くて大股のウォーキング女性達がおしゃべりしながらやってきました・・・リズミカルな呼吸やらナイロン生地のアウターのこすれる音があちこちで次々と聞こえては去っていく・・・皆がそれぞれ自分のペースを守りながら陽の降り注ぐ周回路を謳歌しているのです。
iPodからスティール・ドラムの小気味よいメロディが流れる頃には体も温まり呼吸のリズムが安定してきました。
1周目を軽く流し、もう少しピッチを上げるかなと思った頃、行く手に初老の男性が目にとまったのです。
白いランニング・シャツに黒のハーフ・パンツ姿。頭には赤いバンダナらしきものをねじり鉢巻のようにして、それが周りのジョガーとはいささか異なる雰囲気を醸し出していました。徐々に近づくとむき出しの脛には剛毛が密生しているようです。随分と毛の濃いおっさんだなぁ、とは思いましたが日本人にも時折毛ガニみたいな奴がいるのでそれほどの違和感はありません。もっともコニーは毛ガニみたいな男は大嫌いで触られるのもイヤと言ってましたが・・・
2周目の入り口あたりで僕はその赤いバンダナを軽くパスしようと追い越したのですが、後ろの足音がなかなか遠ざかりません。あれおかしいな、自分よりもっと飛ばしている若者にでも追いつかれてるのかな・・・と振り返ろうとした瞬間、白いシャツが鮮やかに僕を抜き去っていきました。
あいつだ!・・・さきほどより大きくストライドを取って赤いバンダナが見る見る目の前から遠ざかっていきます。勢いが明らかに1周目より勝っている。スパートでもかけているのでしょうか?
(待て。こら待たんか!)一度は抜いた相手に抜き返されると条件反射的に僕の闘争心に火がつきました。
しかもこの赤いバンダナ、僕の2倍くらいは年を食っている感じです。頭頂部だってだいぶ怪しくなっている。いわゆる団塊の世代というやつでしょう。会社にもこの年代のおじさん達は何人もいました。大抵がPCのセットアップも満足にできずエクセルの基本操作だけでもやっとこさというレベルのくせに自己主張だけは強く、パスタをうどん喰いするように下品だけれどパワフルなのが揃っていました。
この日のランニングは1週間ぶりだったでしょうか、普段は殆ど1日中座業なので無理は禁物、徐々に体を慣らしていってペースアップ・・・と心がけて走り始めたのにここにきて俄然ヒートアップしてきました。
前を行く白いランニングシャツの背中は真ん中を中心にべったり汗で張り付いています。まだ冬だというのに随分新陳代謝の活発なオヤジです。
そう言えば通勤の満員電車にもやけに体温が高そうで汗っかきのオッサンにしばしば遭遇することを思い出しました。この間などは途中の急行停車駅に息せき切った感じのおじさんがドアの閉まる寸前に突撃してきて背中を押された連中は皆顔をしかめていたのですが、当人全く意に介した風もなくぜいぜい大きく息を吐き、前にいた若いOLは露骨にイヤそうに顔をしかめていたのですが、多分口臭がきつかったのだと思います。そのうち密閉された車内の気温が外よりだいぶ高いためか、冬だと言うのにこめかみのあたりから汗がたらたらと流れ落ちてきました。その男性は暑くて堪らんといった仕草で何度も手の甲で顔の汗を拭っていたのですが、それでも気持はさっそく両手でしっかりと鷲掴みにしたスポーツ紙に集中しているようで、メガネからおよそ10数cmという超近接状態の苛酷な読書環境のなか気が散る風でもなく慣れた様子です。僕はなにげにそのスポーツ紙に目をやったのですが、半裸のあられもない恰好の娘の写真とともに、「ここに技あり!超悶絶****スペシャル」・・・とかいうどぎついタイトルがデカゴチックで堂々と紙面の中央を占拠しています。まだ早朝だというのに僕はひどい胸焼けを感じました。
結局2周目は暫く並走状態が続きました。先行する赤いバンダナを僕が必死で追いかける展開で第3コーナーになだれ込んだのですが、最後の第4コーナーではいささかプランがありました。
その角は少し起伏のある昇りで一番きつい。そこで一気に抜き去ろうと思ったのです。
その頃にはだいぶ息があがってきていて、吹き出る汗を拭いながら無意識のうちに胸の前のファスナーに手をかけていました。先行ランナーもハアハアと随分息が荒くなり肩が激しく揺れてきました。
こちらも余裕は全くありません、だんだんとランナーズ・ハイ状態に向かって昇天しそうです。
(いよいよ脳内麻薬だ、エンドルフィンの放出だ!)
激しい呼吸の中で断片的なフレーズが飛び交い、最後のスパートをかけようとしたその時、白シャツは急に第4コーナーの右手に拡がる植え込みの脇道へと駆け込んでいきました・・・
逃げた・・・逃げられた・・・脇へと遠ざかる団塊おやじの背を目で追いながら、僕のペースはいきなりがっくりとダウンしていきました。あともう少しだったのに・・・
第4コーナーを廻ったところで僕は走るのを止め、ぜいぜい言いながらも腰に手をやり先ほどの植栽のこんもりとしたあたりに目を凝らしました。あの男はすでに走り去り、あたりに人の気配はまったくありません。
しばらく荒い呼吸が落ち着くのを待ちながら、僕はなおも冬枯れの中で寒そうに咲く可憐な花々を見つめていました。iPodからはブルース系のロックが景気良く流れてきます。
その時、突然決心がついたのです。よし行動を起こすんだ、まず手始めにコンプライアンス室からだと。
2011.12.06
頭をハンマーで思いっきりやられ衝撃を受けたあの夜、ろくに眠ることもできず無為に一晩をやり過ごしたのですが、翌日は有給をとることもなくいつもどおりに出勤しました。睡眠不足で頭がぼおっとしたまま全身はやけに重く感じます。
それでも、体を引きずってでも会社に行ったのはひとえに責任感からだけです。通販システムの開発作業はまさに佳境を迎えていたし、中心メンバーが休んで皆に迷惑をかけるわけにはいかない。モチベーションの低下は否めなかったし、こんな状態に誰がした?と叫びたいのはやまやまだったけれどプロジェクトのメンバーには関係ないでしょう?ただ一人を除いては。
うんざりするほどの満員電車から押し出されるように吐き出され、のろのろと駅の改札を抜け重たい足取りで会社に向かう途中、運河にかかる橋のたもとで僕は足をとめました。風は凪いでいましたが薄い陽射しを受け鈍く光る灰色の水面からは朝の冷気が立ち登ってくるようで肌が痛いほどでした。
オフィスに向かう人々が次々と先を急ぐように僕の脇を通り過ぎて行きます。前方をひたと見据えたまま黙々と歩くダーク・スーツの女性。携帯を耳に押し当てたままのそのそ進むストライプ・スーツの青年はまるで歩きながら独り言を言っているようだ。朝から快活に談笑しながら歩道を闊歩する二人連れのOL達。えんじの襟巻きを首に廻し怪訝そうな顔つきでこちらを覗う年配男。カーキ色のくたびれたダウン・ジャケットで自転車をこぐオヤジは何故か釣竿を担いでいます。
僕はひとりだけ人波に乗り遅れた気分になって、ぼんやりと廻りを眺めていました。
いつもの見慣れた風景。いつもと同じ朝。昨日も今日も、いや明日もきっとこの通りの眺めでしょう。
何も変わらない。今日もこれから会社に着いたらいやと言うほどのコーディング三昧だ。唯一昨日までと今日が違うのは、重苦しい怒りと憎しみでどろどろになった塊が腫瘍のように頭の片隅に巣食っている、その点だけだ・・・
もう一度潮の匂いのする運河に向き直ると、遠くのさざ波の間には何羽ものカモメが浮かび、じっとしたまま漂っています。彼らに掟はあるのでしょうか?それとも勝手気ままに休み、ついばみ、飛び去っていくのでしょうか。
そんなことをとりとめなく考えながら、先ほどコンビニで購入したコーヒーを飲み、焼きそばロールにかじりつきました。寝不足で頭はまだほとんど回転していないのに食欲だけは一人前だ・・・僕は自分の胃袋の頑健さに感謝しました。
会社に着くといつもどおりに僕はPCを立ち上げ、昨日行ったコーディングをチェックし、いくつかの簡単な動作確認でバグの有無を調べ、その後今日の作業工程を確認する、必要であればメンバーとの打ち合わせも朝のできるだけ早い時間帯で済ませる・・・そうしたもろもろのいつもどおりの仕事をその日もやはり始めたのです。
「昨日はどうしたんだ?」右肩の後ろを軽く叩かれ声が聞こえました。
振り向き見上げると平目が立っていたのです。目じりに随分と皺が目立つ細い眼が見下ろしていました。
僕はこの時初めてこの目つきはどこか爬虫類に似ているなと気がついたのです。白目の部分はだいぶ黄ばんで経年劣化進行中でしたが、一重の重そうなまぶたの奥の黒目は油断なく光っているようで、体温のぬくもりを感じさせません。微笑んでいても目は笑っていない、そんな感じです。
「夜の7時から打ち合わせをしようと言ったじゃないか。彼も待っていたんだぜ」と言って部長はJさんの名をあげました。
「コールセンター部隊との連携確認をする筈だったろ?君も向こうの進捗を気にしてたじゃないか」
僕ははあ、と言ったきり沈黙しました。目の前のディスプレイを見つめたままキーボード操作に戻りました。
相手の訝しげな様子が背中を通して伝わってきます。
「しょうがない、これから始めよう。Jも呼んできてくれ。会議室は予約を取ってないから社長室でやろう。今日は出張で一日空いてる筈だから」
メールチェック真っ最中だったJさんのぶうたれる声には取り合わず要件だけ伝えると、僕はノートPC片手に社長室に向かいました。
「商品データベースの進捗の方だけど、順調かい?」
ベージュの革張りソファの方に座った部長が右腕を背もたれの後ろに廻し足を組んだまま尋ねました。
「はあ、ページング処理の部分は済ませてあります。画像のオンマウスで商品特性表示という先方からの要望は・・・一応対応はしましたが、Javascriptはやっぱり止めたほうが良いのではないでしょうか」
「何故?」
「ポップアップ表示が地の一覧画面を邪魔している感じがします。いちいちうるさい感じですよ、見てもらえばわかりますが」
「そう、じゃ先方に今日にでも見てもらえば?テストサイトはもう立ち上がっているんだろ」
「ええ、アカウントはまだ発行してませんが。メールで先方に伝えておきます」
その時、JさんがノートPCを小脇に抱え社長室に入ってきて、僕の隣の一人がけソファにどっかりと腰を下ろしました。
「お前さあ、すっぽかしは勘弁だよお。こっちは別件をキャンセルしてまで昨晩は空けてあったのにさあ」
入ってくるなり間延びした胴間声で文句を言い始めました。
(どうせ酒だろ。夜の7時に仕事の用件はないだろ、あんたに限っては)僕は肚の中でそう呟きましたが、黙っていました。
「僕にもIDとパスワードくれないかな」そう言って部長は煙草を取り出しました。オフィスは全面禁煙なのに社長室だけは例外だから部長はしばしば進んでこの部屋を使いたがります。
「ところでSQLインジェクション対策はどうなっているんだっけ?」紫煙をくゆらせながら尋ねました。
「基本は僕のほうで対応しましたけど、隣の部隊のケンさんにアドバイスを依頼してます。やはり経験豊富で最新事情にも詳しいので」
そこまで説明したところでJさんが割り込んできました。
「SQLインジェクションって何?」
驚きました。この人は仮にもSE部隊に在籍しながら「SQLインジェクション」を知らずに今日まできたのでしょうか?信じられない発言です。
「キミ、SQLインジェクションっていうのはね」部長はやれやれと言う感じで話を引き継ぎました。
一般のWebアプリケーションには通常ログイン画面があるだろう?あそこにだね、仮に・・・・・・部長の説明が始まり僕は暫くの間、よく動く彼の口元を眺めていたのです。
やがて自分にとって退屈なその話は、どこか耳の遠くで交わされている会話になりました。
知らず知らずのうちに僕は目の前の男が先日僕のガールフレンドに行った卑劣な行為を反芻していたのです。
・・・この男をねじ伏せてやるにはどうしたら良いのだろう・・・単刀直入に切り出してやろうか。例えばそう、ずばり紋切り型で問い詰めてやるんだ。あんたがちょっかいをだした女性は僕の恋人なんですよ、あなたはIT企業の部長職としてそれなりの地位にある身だろ。それがセクハラをしたんだよ、普通ばれたら懲戒解雇だろ。損害賠償にも発展する問題だよ。わかっていますよね、ただじゃ済みませんよ・・・そうやってひざまずかせてやるんだ!
僕の頭の中では羽のついた妄想が勝手にぐんぐん舞い上がっていきました。
でも、ああ!・・・そんな空想にひたりながらも一方で、はなから自分には決してそんな勇気などありはしないことも認識していました。相手をつるし上げる真似など決してできる男じゃないということは自分が最も良く分かっているのです。なにしろ未だかつてそんな映画のワンシーンのような現場は経験したことがありません。ブルってしまうに決まってます。中肉中背の自分とは違い平目はかなり上背もあり、学生時代は体育会サッカー部で、レギュラーのセンターバックだったと言うのです。
まあ今で言うと闘莉王みたいなもんだよ、あそこまでウエイトはなかったけど・・・酒の席で酔っ払うとよく口にしたセリフです。もっとも誰も真に受けず、いくらなんでも冗談がきつい、顔のデカさに比べて肩幅が狭く胸は薄い、せいぜいが中澤をひと廻りほどダウンサイジングして華奢にした程度だろとか皆陰口を叩いていましたが。
目の前ではまだ二人が掛け合い漫才宜しくSQLインジェクションをネタに盛り上がっていました。
「インジェクションって注射とか浣腸って意味じゃないですかぁ」LAN接続したノートPCに目を落としたままJさんが素っ頓狂な声をあげます。
「だから、Webアプリに悪意をもってコマンドを注入するってことだよ」
「いやあ知らなかったあ、いちじく浣腸のお仕置きは得意なんだけど」驚いた風のJさんはもじゃもじゃの髪に右手を突っ込みながら頭をぼりぼり掻いて、「部長もモテるから若い子に注射するの得意でしょ」と言いました。
そして気の利いた冗談だとでも思ったのか、びっくりするほどの大声でぎゃははと笑い飛ばすのです。溜め息がでました。
・・・いまさら問い詰めてもタクシーという密室状態では分が悪いかもしれない。
なにしろ証拠と言って、彼女の証言しかないじゃないか。シラを切られるとそれ以上の追及は無理だろう、あべこべにたちの悪い言いがかりだと言って逆襲してくるかも知れないな。
ここはやはり手始めにコンプライアンス推進室にするか。本社ビルに確か設置されていた筈だ。
そこで堂々と告発してやるんだ。管理職の地位を悪用するセクハラ部長がいるんです、とはっきり言ってやる。
Jさんは相変わらず下卑たジョークとヨイショを連発し、部長も混ぜっ返してはへらへらしていました。
・・・労働組合はどうだろう?組合員がセクハラを受けたんだ、相談されれば無視はできないだろう。エロ管理職に向かって糾弾でもしてもらえないものか。僕も彼女も毎月組合費を徴収されている。こういう時役に立たぬなら何のために普段から金を払っているのか分からないじゃないか・・・
でも一方でみんなが折に触れ組合について言っていることも思い出していました。
”御用組合”・・・この言葉をなんど聞かされたことか。自分が所属している組合のフロントが戦う闘士とはとても思えない評言です。昔は職場で管理職を吊るし上げてた、そんな時代もあったというではないですか・・・でも今ではそんな緊迫したシーンを目の当たりにしたことは一度もありません。期待して良いものか・・・不安は残ります。
「おい、何をぼおっとしているんだ」突然部長の声が耳元で響きました。
「さあ、問い合わせDBと商品DBの連携の話だ、早く片付けよう。これが済めばクロージングはもう目の前だ」そう言うと部長はJさんに担当を呼んでくるよう促しました。
Jさんが部屋を出て行くと部長は真面目な口調でこう言うのです。
「今年度はこのJOBの成否で我々の評価が決まるんだ。勿論君の査定もだ。後もう少しで君のA評価をプッシュできるんだ。頑張れ」
最後の”頑張れ”と言う声がどこか頭の上のほうで何度もリフレインしていました。
上司から評価されること、こんどの夏のボーナスを少しでも積みますため良い査定を受けること、それはとりもなおさず将来この会社で良いポジションを得るために手を抜けぬプロセスでもあります。
僕はそろそろ結婚を意識するようになっていました。そうなったらなんとしても安定して少しでも多くの生活の資が必要なことは自明の理です・・・そこまで考えが及んだとき、苦い薬を飲んだ後のように思わず顔をしかめました。
先ほどまで頭に浮かんだいくつもの考えは赤茶けた錆となり、やがて肚の中に沈殿し澱となって積もり、僕を苦しめるのです。
それでも、体を引きずってでも会社に行ったのはひとえに責任感からだけです。通販システムの開発作業はまさに佳境を迎えていたし、中心メンバーが休んで皆に迷惑をかけるわけにはいかない。モチベーションの低下は否めなかったし、こんな状態に誰がした?と叫びたいのはやまやまだったけれどプロジェクトのメンバーには関係ないでしょう?ただ一人を除いては。
うんざりするほどの満員電車から押し出されるように吐き出され、のろのろと駅の改札を抜け重たい足取りで会社に向かう途中、運河にかかる橋のたもとで僕は足をとめました。風は凪いでいましたが薄い陽射しを受け鈍く光る灰色の水面からは朝の冷気が立ち登ってくるようで肌が痛いほどでした。
オフィスに向かう人々が次々と先を急ぐように僕の脇を通り過ぎて行きます。前方をひたと見据えたまま黙々と歩くダーク・スーツの女性。携帯を耳に押し当てたままのそのそ進むストライプ・スーツの青年はまるで歩きながら独り言を言っているようだ。朝から快活に談笑しながら歩道を闊歩する二人連れのOL達。えんじの襟巻きを首に廻し怪訝そうな顔つきでこちらを覗う年配男。カーキ色のくたびれたダウン・ジャケットで自転車をこぐオヤジは何故か釣竿を担いでいます。
僕はひとりだけ人波に乗り遅れた気分になって、ぼんやりと廻りを眺めていました。
いつもの見慣れた風景。いつもと同じ朝。昨日も今日も、いや明日もきっとこの通りの眺めでしょう。
何も変わらない。今日もこれから会社に着いたらいやと言うほどのコーディング三昧だ。唯一昨日までと今日が違うのは、重苦しい怒りと憎しみでどろどろになった塊が腫瘍のように頭の片隅に巣食っている、その点だけだ・・・
もう一度潮の匂いのする運河に向き直ると、遠くのさざ波の間には何羽ものカモメが浮かび、じっとしたまま漂っています。彼らに掟はあるのでしょうか?それとも勝手気ままに休み、ついばみ、飛び去っていくのでしょうか。
そんなことをとりとめなく考えながら、先ほどコンビニで購入したコーヒーを飲み、焼きそばロールにかじりつきました。寝不足で頭はまだほとんど回転していないのに食欲だけは一人前だ・・・僕は自分の胃袋の頑健さに感謝しました。
会社に着くといつもどおりに僕はPCを立ち上げ、昨日行ったコーディングをチェックし、いくつかの簡単な動作確認でバグの有無を調べ、その後今日の作業工程を確認する、必要であればメンバーとの打ち合わせも朝のできるだけ早い時間帯で済ませる・・・そうしたもろもろのいつもどおりの仕事をその日もやはり始めたのです。
「昨日はどうしたんだ?」右肩の後ろを軽く叩かれ声が聞こえました。
振り向き見上げると平目が立っていたのです。目じりに随分と皺が目立つ細い眼が見下ろしていました。
僕はこの時初めてこの目つきはどこか爬虫類に似ているなと気がついたのです。白目の部分はだいぶ黄ばんで経年劣化進行中でしたが、一重の重そうなまぶたの奥の黒目は油断なく光っているようで、体温のぬくもりを感じさせません。微笑んでいても目は笑っていない、そんな感じです。
「夜の7時から打ち合わせをしようと言ったじゃないか。彼も待っていたんだぜ」と言って部長はJさんの名をあげました。
「コールセンター部隊との連携確認をする筈だったろ?君も向こうの進捗を気にしてたじゃないか」
僕ははあ、と言ったきり沈黙しました。目の前のディスプレイを見つめたままキーボード操作に戻りました。
相手の訝しげな様子が背中を通して伝わってきます。
「しょうがない、これから始めよう。Jも呼んできてくれ。会議室は予約を取ってないから社長室でやろう。今日は出張で一日空いてる筈だから」
メールチェック真っ最中だったJさんのぶうたれる声には取り合わず要件だけ伝えると、僕はノートPC片手に社長室に向かいました。
「商品データベースの進捗の方だけど、順調かい?」
ベージュの革張りソファの方に座った部長が右腕を背もたれの後ろに廻し足を組んだまま尋ねました。
「はあ、ページング処理の部分は済ませてあります。画像のオンマウスで商品特性表示という先方からの要望は・・・一応対応はしましたが、Javascriptはやっぱり止めたほうが良いのではないでしょうか」
「何故?」
「ポップアップ表示が地の一覧画面を邪魔している感じがします。いちいちうるさい感じですよ、見てもらえばわかりますが」
「そう、じゃ先方に今日にでも見てもらえば?テストサイトはもう立ち上がっているんだろ」
「ええ、アカウントはまだ発行してませんが。メールで先方に伝えておきます」
その時、JさんがノートPCを小脇に抱え社長室に入ってきて、僕の隣の一人がけソファにどっかりと腰を下ろしました。
「お前さあ、すっぽかしは勘弁だよお。こっちは別件をキャンセルしてまで昨晩は空けてあったのにさあ」
入ってくるなり間延びした胴間声で文句を言い始めました。
(どうせ酒だろ。夜の7時に仕事の用件はないだろ、あんたに限っては)僕は肚の中でそう呟きましたが、黙っていました。
「僕にもIDとパスワードくれないかな」そう言って部長は煙草を取り出しました。オフィスは全面禁煙なのに社長室だけは例外だから部長はしばしば進んでこの部屋を使いたがります。
「ところでSQLインジェクション対策はどうなっているんだっけ?」紫煙をくゆらせながら尋ねました。
「基本は僕のほうで対応しましたけど、隣の部隊のケンさんにアドバイスを依頼してます。やはり経験豊富で最新事情にも詳しいので」
そこまで説明したところでJさんが割り込んできました。
「SQLインジェクションって何?」
驚きました。この人は仮にもSE部隊に在籍しながら「SQLインジェクション」を知らずに今日まできたのでしょうか?信じられない発言です。
「キミ、SQLインジェクションっていうのはね」部長はやれやれと言う感じで話を引き継ぎました。
一般のWebアプリケーションには通常ログイン画面があるだろう?あそこにだね、仮に・・・・・・部長の説明が始まり僕は暫くの間、よく動く彼の口元を眺めていたのです。
やがて自分にとって退屈なその話は、どこか耳の遠くで交わされている会話になりました。
知らず知らずのうちに僕は目の前の男が先日僕のガールフレンドに行った卑劣な行為を反芻していたのです。
・・・この男をねじ伏せてやるにはどうしたら良いのだろう・・・単刀直入に切り出してやろうか。例えばそう、ずばり紋切り型で問い詰めてやるんだ。あんたがちょっかいをだした女性は僕の恋人なんですよ、あなたはIT企業の部長職としてそれなりの地位にある身だろ。それがセクハラをしたんだよ、普通ばれたら懲戒解雇だろ。損害賠償にも発展する問題だよ。わかっていますよね、ただじゃ済みませんよ・・・そうやってひざまずかせてやるんだ!
僕の頭の中では羽のついた妄想が勝手にぐんぐん舞い上がっていきました。
でも、ああ!・・・そんな空想にひたりながらも一方で、はなから自分には決してそんな勇気などありはしないことも認識していました。相手をつるし上げる真似など決してできる男じゃないということは自分が最も良く分かっているのです。なにしろ未だかつてそんな映画のワンシーンのような現場は経験したことがありません。ブルってしまうに決まってます。中肉中背の自分とは違い平目はかなり上背もあり、学生時代は体育会サッカー部で、レギュラーのセンターバックだったと言うのです。
まあ今で言うと闘莉王みたいなもんだよ、あそこまでウエイトはなかったけど・・・酒の席で酔っ払うとよく口にしたセリフです。もっとも誰も真に受けず、いくらなんでも冗談がきつい、顔のデカさに比べて肩幅が狭く胸は薄い、せいぜいが中澤をひと廻りほどダウンサイジングして華奢にした程度だろとか皆陰口を叩いていましたが。
目の前ではまだ二人が掛け合い漫才宜しくSQLインジェクションをネタに盛り上がっていました。
「インジェクションって注射とか浣腸って意味じゃないですかぁ」LAN接続したノートPCに目を落としたままJさんが素っ頓狂な声をあげます。
「だから、Webアプリに悪意をもってコマンドを注入するってことだよ」
「いやあ知らなかったあ、いちじく浣腸のお仕置きは得意なんだけど」驚いた風のJさんはもじゃもじゃの髪に右手を突っ込みながら頭をぼりぼり掻いて、「部長もモテるから若い子に注射するの得意でしょ」と言いました。
そして気の利いた冗談だとでも思ったのか、びっくりするほどの大声でぎゃははと笑い飛ばすのです。溜め息がでました。
・・・いまさら問い詰めてもタクシーという密室状態では分が悪いかもしれない。
なにしろ証拠と言って、彼女の証言しかないじゃないか。シラを切られるとそれ以上の追及は無理だろう、あべこべにたちの悪い言いがかりだと言って逆襲してくるかも知れないな。
ここはやはり手始めにコンプライアンス推進室にするか。本社ビルに確か設置されていた筈だ。
そこで堂々と告発してやるんだ。管理職の地位を悪用するセクハラ部長がいるんです、とはっきり言ってやる。
Jさんは相変わらず下卑たジョークとヨイショを連発し、部長も混ぜっ返してはへらへらしていました。
・・・労働組合はどうだろう?組合員がセクハラを受けたんだ、相談されれば無視はできないだろう。エロ管理職に向かって糾弾でもしてもらえないものか。僕も彼女も毎月組合費を徴収されている。こういう時役に立たぬなら何のために普段から金を払っているのか分からないじゃないか・・・
でも一方でみんなが折に触れ組合について言っていることも思い出していました。
”御用組合”・・・この言葉をなんど聞かされたことか。自分が所属している組合のフロントが戦う闘士とはとても思えない評言です。昔は職場で管理職を吊るし上げてた、そんな時代もあったというではないですか・・・でも今ではそんな緊迫したシーンを目の当たりにしたことは一度もありません。期待して良いものか・・・不安は残ります。
「おい、何をぼおっとしているんだ」突然部長の声が耳元で響きました。
「さあ、問い合わせDBと商品DBの連携の話だ、早く片付けよう。これが済めばクロージングはもう目の前だ」そう言うと部長はJさんに担当を呼んでくるよう促しました。
Jさんが部屋を出て行くと部長は真面目な口調でこう言うのです。
「今年度はこのJOBの成否で我々の評価が決まるんだ。勿論君の査定もだ。後もう少しで君のA評価をプッシュできるんだ。頑張れ」
最後の”頑張れ”と言う声がどこか頭の上のほうで何度もリフレインしていました。
上司から評価されること、こんどの夏のボーナスを少しでも積みますため良い査定を受けること、それはとりもなおさず将来この会社で良いポジションを得るために手を抜けぬプロセスでもあります。
僕はそろそろ結婚を意識するようになっていました。そうなったらなんとしても安定して少しでも多くの生活の資が必要なことは自明の理です・・・そこまで考えが及んだとき、苦い薬を飲んだ後のように思わず顔をしかめました。
先ほどまで頭に浮かんだいくつもの考えは赤茶けた錆となり、やがて肚の中に沈殿し澱となって積もり、僕を苦しめるのです。









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